
龍光院は平将門に深く所縁のあるお寺です。
お寺のすぐ横にはとても素晴らしく貴重な彫刻が施されている全国でも珍しい将門神社が
隣接しております。将門の三女如蔵尼が父の霊を祀ったのが始まりと言われており、龍光院
境内の地蔵堂には、その如蔵尼が将門とその一族を弔って祀ったという地蔵尊があります。
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【平将門の生誕】
平将門は桓武天皇の曾孫として平良将(良持)と
犬養春江(取手の豪族)の次男として903年(延喜3)
に生誕した。父平良将は高望王の子で桓武天皇の三代後の子である。現在の茨城県守谷を中心として
取手、秩父、福島、千葉に所領を有していた。
幸田露伴の説によると、将門の生誕した頃は母方
の実家で子供を産むことが習わしであった。当然
将門も母方の犬養家(取手)に生誕したと思われる。
【岩井の言われ】
将門が野を駆け巡っているうちに、のどが渇いて困り果てる
と「水」と一声、東南の方に聞こえて一人の翁が立っていた。
やがて傍らの大石を上げて、力一杯地面に打ち込むと妙味
の水がわき出した。不思議に思っている内に翁の姿はなく、
どこかに消えてしまった。
この言い伝えが「一言明神」とあわせ、石井の井戸は「岩井
戸の宮」として永く住民に尊ばれた。この地も「岩井戸の宮」
として家来や落人が将門をまつり水を大切にして村を護った
のではないだろうか。
今も石井養魚場の近くに水神がまつられている。
【将門の父、良将と時代背景】
743年墾田永年私財法が発せられ貴族や寺院・
神社は奴隷や逃亡した農民を使って荘園を増やし
ていった。朝廷が仏教を保護したため僧侶の勢力
も強まり、やがて道鏡のように政権を握る者もいた。
このため桓武天皇は都を長岡、794年には平安京
に移し政治の立て直しを図っていた。
桓武天皇は地方政治を監督するため「勘解由氏」
という役人を置き、農民からの兵士化を禁止し、郡司等の子弟から健康な兵士を作り上げた。
しかし地方では、墾田永年私財法で公地制が崩壊し、私有地化が進み国司が支配する「荘園」が増大し、10世紀頃より農村にも「名主」といわれる、自分で土地を保有し支配権を握る
ものまでが台頭してきた。
貴族には「荘園」が集まり、中央の貴族は税を納めなくても良い「不輸の権」、国司立ち入り
を拒む「不入の権」を有するようになり、国の支配から独立していった。
朝廷の力が届かなくなってくると、国司の横暴・山
賊・海賊がはびこり、地方政治は乱れた。
関東北部・板東はたびたびあった蝦夷の反乱を抑
えるべく武士団が派遣されその代表格が藤原氏、
源氏、平氏であった。
将門の父良将は桓武平氏の流れを持ち、高望王
が召喚されて上総の国司となった。その後、良将
の代には、彼は鉱物や馬の飼育に丈、また人々を
引き寄せるカリスマ性を発揮し、陸奥に拠点を置き
出羽・奥羽の征夷を司る鏡守府将軍の要職として力をふるった。
板東平氏は10世紀前半には関東全域に住み着き、良将も下総国北部を地盤として未墾の
土地を開拓し、広大な私営田を経営し勢力を拡大していた。このため、近隣の一族や豪族と
絶えず争っていた。板東北部を制していた良将のカリスマ性は、実は利根川上流の様々な
財源(金・銅・鉄)と、馬の飼育によるものであった。
【蝦夷・えみし】
古代の東北地方全体を陸奥国(みちのくのくに)と言い、奈良時代の和銅五年(七一二)に
陸奥国と越後国を割いて出羽国が誕生した。奥羽山脈を境にして、東側を陸奥国に西側を
出羽国とした。この地域に住む人を「えみし」と呼び、蝦夷の文字を当てた。「えみし」という
言葉は神武天皇記にもあり、大和を平定した時の歌に「えみしは一人で百人にも相当する
勇者と人はいうが、手向かいもしなかった」とある。この時は、表音文字で「愛瀰詩」と記され、
飛鳥・奈良時代の人名に曽我毛人(そがのえみし)、小野毛人(おののえみし)、佐伯今毛人
(さえきのいまえみし)など毛人をエミシと読んだ。
【龍光院に残る地蔵縁起版木版】
この版木は古くから龍光院に保存されている。安永3年に制作されたことが版木版に書かれている。
【地 蔵 緑 起】
抑も下総國相馬郡岩井村龍光院に安置し奉る地蔵大菩薩の由来を尋奉るに垣武天皇五代
の孫、前の将軍平良將の男、平将門の女『如蔵尼』此の尊像を安置し奉りて片時も懈りなく
信心堅固なりしが、或時病事なして息絶、直に閻魔大王の前に至る時に地蔵菩薩光明を放
って奇香馥郁として聴所に来臨し玉わり、其の時冥使皆席を避けて蹲踞す。
菩薩我を済い給いと紅涙を滴って申しければ菩薩
閻玉に告げて宣わく、此の女前生の因縁に依り仮
りに女形を稟くと云ども尼となって信心堅固なり一
朝息絶へ此れ冥府に来るも寿命未だ尽ず早く娑婆
に皈らしむべしと、閻玉謹んで菩薩の仰せを奉じ
早速娑婆に皈らしむ菩薩頓頓聴所の門を出て給ふ
と思いて其の侭薐生せり(委しくは前大平記十八の
末に当たり)其の後、如蔵尼は、一族菩堤のため
地蔵尊を負へ奉りて下総へ来り徒類一族戦死の跡
を尋ね、忍びくて此岩井の郷は父将門出張の処にしてゆかり多ければ此の処に父の霊を祠
りて将門大明神と号し亦地蔵堂を建立し尊蔵を安置して信心懈らざりけり。其の後数多くの
年代を経て元和二年(西暦一六一六年)三百六十年前地蔵堂の近辺より火災起り一村悉く
灰侭となりたり、其の時炎々たる猛火の中より地蔵菩薩光明赫ことして東を指して飛び去り給ふ。
然るに不思議にも其の時印旛郡萩原村林代某たるもの同地小林村の堤上にて此の尊像を
拾い得て驚首合掌礼拝し家に奉じ皈りて一字を建立し尊像を安置し信心堅固なりしが諸願
成就し家内繁昌せりと此の事、萩原村に於いてもえ和の源岩井より飛来りたるものなりと云う
伝省を以って同村慶昌寺に便りて尊像の替りを送り元の尊像を迎いて遷座し奉るものなりと
云云
安永三 甲午歳元陽
下総國相馬郡岩井
岩井山龍光院

【地域に伝わる将門様の版木版】
この版木版は近くに住む龍光院の元本堂を建立
するために力を振るった、勝矢五兵衛家に伝わる
物です。